有害な化学物質が国境を越えて取引されるとき、輸出する側だけがその危険性を理解していて、輸入する側が十分な情報を持っていなければ、適切な判断はできません。
ロッテルダム条約は、そうした情報格差を減らすための国際的な仕組みです。
この条約の中心にあるのが、PIC(Prior Informed Consent:事前のかつ情報に基づく同意)手続です。輸入国が、対象化学物質を今後受け入れるのか、受け入れないのか、あるいは条件付きで受け入れるのかを事前に意思表示し、輸出国はその決定を尊重します。
ロッテルダム条約は、危険な化学物質を世界一律で禁止する条約ではありません。では、何を管理し、企業実務では何を確認すべきなのでしょうか。
まず押さえたい――ロッテルダム条約は「禁止リスト」ではない
ロッテルダム条約を理解するとき、最初に整理しておきたいのがこの点です。
条約の附属書III(Annex III)には、PIC手続の対象となる化学物質が掲載されています。しかし、そこに掲載されたからといって、その物質が世界共通で全面禁止されるわけではありません。
条約事務局自身も、附属書IIIのリストについて「Black listではなく、むしろwatch list」と説明しています。条約は国際貿易を一律に禁止するものではなく、各締約国の判断を基礎として取引を管理する仕組みだからです。
ロッテルダム条約を見るときは、「何が禁止されたのか」ではなく、まず「誰が、どの情報をもとに、どのような輸入判断をするのか」を見る必要があります。
ここが、ストックホルム条約との大きな違いです。
ストックホルム条約では、POPs(Persistent Organic Pollutants:残留性有機汚染物質)について、製造・使用の廃絶や制限などが中心的なテーマになります。
一方、ロッテルダム条約は、
「この物質を輸入するかどうかを、輸入国が情報を得たうえで判断できるようにする」
ことに重点があります。
そもそも、なぜこの条約が必要になったのか
背景にあるのは、化学物質の生産・国際貿易の拡大です。
化学品や農薬の流通が世界的に広がる一方で、すべての国が同じ水準の化学物質管理制度、試験能力、行政体制、情報基盤を持っているわけではありません。
条約事務局は、化学物質の生産・貿易が急速に拡大する中、とりわけ輸入・使用を監視するための十分なインフラを持たない国が、有害化学物質や農薬によるリスクにさらされやすかったことを、条約成立の背景として説明しています。
そこで1980年代から、FAO(国連食糧農業機関)やUNEP(国連環境計画)の枠組みの中で、国際貿易される有害化学物質について情報を共有する自主的なPIC制度が発展していきました。
1992年の地球サミットでも国際的なPIC制度の重要性が示され、その後の政府間交渉を経て、1998年9月10日にオランダ・ロッテルダムで条約が採択されました。発効は2004年2月24日です。
国際貿易の対象となる特定の有害な化学物質及び駆除剤についての事前のかつ情報に基づく同意の手続に関するロッテルダム条約
長い名称ですが、本質は明確です。
危険性について知らないまま輸入することを減らす。
輸入する国自身が、情報を得たうえで判断する。
そのための条約です。
PICとは何か――条約の中心となる仕組み
PIC
Prior Informed Consent = 事前のかつ情報に基づく同意
PIC手続は、附属書IIIに掲載された化学物質を対象として、輸入国の意思を正式に取得し、その内容を他の締約国へ伝達する仕組みです。
仕組みを単純化すると、次のようになります。
対象物質が附属書IIIに掲載される
↓
条約事務局から各締約国へ情報が提供される
↓
輸入国が今後の輸入について意思決定する
↓
Import Responseとして事務局へ提出する
↓
その内容がPIC Circular等を通じて各国へ共有される
↓
輸出国は輸入国の決定を尊重する
輸入国の回答は、単純な「YES/NO」だけではありません。
✓ 輸入に同意する
✓ 輸入に同意しない
✓ 一定の条件付きで輸入に同意する
また、最終判断に至っていない場合には、暫定的な回答として、追加情報を求めたり、評価支援を求めたりすることもできます。
DGDとは何か――輸入国が判断するための情報
DGD
Decision Guidance Document = 意思決定手引文書
附属書IIIに物質が掲載されると、その物質についてDGDが作成され、各締約国へ提供されます。
DGDの役割は、輸入国に代わって結論を出すことではありません。
その化学物質の有害性や、既に各国で取られた規制措置などの情報を提供し、輸入国が自国の状況を踏まえて判断するための材料を提供することにあります。
「危険だから輸入禁止にしなさい」
という文書ではなく、
「このような情報があります。自国として今後の輸入をどうするか判断してください」
という性格に近いものです。
この「情報を与えたうえで、各国に判断を委ねる」という設計が、ロッテルダム条約の特徴です。
Annex IIIには何が掲載されているのか
2026年8月時点で、附属書IIIには合計57の化学物質が掲載されています。
農薬:38
このうち著しく有害な駆除用製剤4件を含む
工業用化学物質:18
農薬と工業用化学物質の両方に分類されるもの:1
ここからも分かるように、ロッテルダム条約は農薬だけの制度ではありません。工業用化学物質も対象です。
また、すべての「有害化学物質」が自動的に附属書IIIへ入るわけでもありません。
例えば、健康や環境上の理由によって、複数の締約国で禁止または厳しく制限され、その情報が条約の手続に従って審査されたうえで、締約国会議がPIC手続の対象とするかを決定します。
2025年にはカルボスルファンとフェンチオンが追加
条約は固定された制度ではありません。
対象物質は、締約国からの情報や専門家による審査、締約国会議での決定を通じて更新されます。
2025年の締約国会議では、カルボスルファンと、特定濃度以上のフェンチオン超低容量製剤を附属書IIIへ追加することが決定されました。これらの追加は2025年10月22日に発効しています。
条約事務局は、これらについて各締約国へ2026年7月21日までにImport Responseを提出するよう求めていました。
2026年6月発行の第63号PIC Circularでは、カルボスルファンについて12締約国、対象フェンチオン製剤について10締約国から輸入回答が提出されていることが報告されています。
物質が掲載された後、各国が輸入意思を示し、その回答を共有し、輸出国が対応する。そこまでがPIC制度です。
Import Response――企業実務では何を見るべきか
企業にとって特に重要なのがImport Responseです。
同じ附属書IIIの化学物質であっても、輸入国によって対応が同一とは限りません。
ある国は輸入に同意している。
別の国は輸入に同意していない。
さらに別の国では一定の条件を付けている。
この違いがあり得ます。
したがって、対象物質を海外へ輸出する場合、
「Annex IIIに掲載されているか」
だけを見るのでは不十分です。
「輸入国は、その物質についてどのようなImport Responseを出しているか」
まで確認する必要があります。
条約事務局はImport Responseをデータベースで公開しており、その更新内容は原則として毎年6月と12月にPIC Circularで共有されます。
つまり、ロッテルダム条約対応では、物質情報と国別情報を組み合わせて見ることが重要になります。
Annex IIIだけ見ればよいわけではない――Export Notification
ここで、ロッテルダム条約について見落とされやすい点があります。
条約上の情報交換は、Annex IIIに掲載された物質だけではありません。
ある締約国が、自国内で化学物質を禁止または厳しく制限しており、その物質を他国へ輸出しようとする場合には、一定の場合、輸入国に対してExport Notification(輸出通知)を行う仕組みがあります。
この制度は条約第12条に規定されています。
「Annex IIIに入っていないからロッテルダム条約とは無関係」とは限りません。
Annex III未掲載であっても、輸出国で禁止・厳しく制限された物質を輸出する場合には、原則として最初の輸出前、その後は毎年、輸出通知が必要になる仕組みがあります。
ロッテルダム条約の本質が「PIC対象物質リスト」ではなく、有害化学物質の国際貿易における情報共有にあることがよく分かる部分です。
日本企業にとって何が関係するのか
日本もロッテルダム条約の締約国です。
日本は1999年8月31日に署名し、2004年6月15日に受諾、同年9月13日に日本について条約が発効しました。
国内では、環境省、経済産業省、農林水産省などが条約への対応に関与しています。
経済産業省は、PIC条約対象物質や、自国で禁止・厳しく制限した物質を輸出する際の手続に関する情報を公開しています。また、一定の有害化学物質の輸出については、外国為替及び外国貿易法に基づく輸出承認等の手続が関係します。
「海外の環境条約の話だから直接関係ない」とは言えません。
とくに対象化学物質やその混合物・製剤等を輸出する事業では、具体的な国内手続と輸入国側の意思決定を確認する必要があります。
企業は何を確認すればよいのか
企業実務では、ロッテルダム条約を必要以上に複雑に考える必要はありません。
まず、順番に確認することが重要です。
STEP 1 扱っている物質を特定する
最初に、自社が輸出しようとしているものが何なのかを明確にします。
化学物質名、CAS番号、組成、濃度、用途、製剤か混合物かといった基本情報です。
ここが曖昧なままでは、条約対象かどうかも確認できません。
STEP 2 Annex IIIの対象か確認する
次に、対象物質がロッテルダム条約附属書IIIに掲載されているかを確認します。
掲載されている場合、PIC手続の対象になります。
ただし、名称だけでなく、カテゴリーや製剤条件なども確認する必要があります。
STEP 3 輸入国のImport Responseを確認する
Annex III対象であれば、輸入国がどのような判断を示しているか確認します。
✓ 輸入同意
✓ 輸入不同意
✓ 条件付き同意
など、国ごとの判断があり得ます。
STEP 4 Annex III以外の輸出通知も確認する
対象物質がAnnex IIIに掲載されていない場合でも、輸出国で禁止または厳しく制限されている場合には、Export Notificationが関係する可能性があります。
したがって、単に「PIC対象リストにあるか」だけで判断を終えないことが重要です。
STEP 5 国内の輸出手続を確認する
最後に、実際の輸出について適用される国内制度を確認します。
国際条約そのものと、企業が実際に行う通関・輸出承認等の手続は同じものではありません。
条約上の義務が各国の国内制度へどのように反映されているかを見る必要があります。
ロッテルダム条約と試験・分析はどう関係するのか
ロッテルダム条約は、試験規格そのものを定める条約ではありません。
「ロッテルダム条約対応試験をすれば適合できる」という構造ではありません。
企業実務で必要になるのは、まず対象物質を正しく特定することです。
そのために、SDS、組成情報、原料情報、サプライヤー情報などを確認し、必要に応じて分析を利用することになります。
例えば、
「この製剤に対象物質が含まれているのか」
「濃度条件に該当するのか」
「サプライヤーの資料だけでは組成を確認できない」
といった場面では、分析が判断材料になる可能性があります。
しかし、分析結果だけでPIC手続全体の適否が決まるわけではありません。
物質の特定 + 条約上の対象範囲 + 輸入国の意思 + 国内の輸出手続
を組み合わせて判断する必要があります。
ストックホルム条約との違いを整理すると分かりやすい
ロッテルダム条約とストックホルム条約は、同じBRS三条約の枠組みで運営されていますが、役割は異なります。
ストックホルム条約では、POPsについて廃絶や制限を進めることが中心です。
ロッテルダム条約では、特定の有害化学物質や農薬について、国際貿易時の情報共有と輸入国の意思決定を尊重することが中心です。
さらにバーゼル条約では、有害廃棄物等の越境移動と処分が中心になります。
ストックホルム条約
有害な化学物質をどう廃絶・制限するか
ロッテルダム条約
有害な化学物質を国際貿易するとき、どう情報を共有し、輸入国の意思を尊重するか
バーゼル条約
有害廃棄物等を国境を越えて移動させるとき、どう管理するか
同じ「化学物質の国際条約」でも、管理する段階が異なるのです。
関連する背景については、 ストックホルム条約とPOPsの仕組み もあわせて参照すると、違いがより理解しやすくなります。
規制物質の一覧より重要なのは、「国際貿易の流れ」で見ること
ロッテルダム条約の実務上のポイントは、規制物質の一覧を覚えることではないとTICnology Japanでは考えます。
重要なのは、「化学物質の規制は、物質単体ではなく、国際貿易の流れの中で見る必要がある」ということです。
同じ化学物質であっても、どの国から輸出するのか、どの国へ輸入するのか、その物質がどのカテゴリーで使われるのか、輸入国がどのような意思表示をしているのか、輸出国でどのような規制措置が取られているのかによって、確認すべき内容が変わります。
そのため企業実務では、「対象物質かどうか」だけを確認して終えるのではなく、
物質情報
↓
条約上の区分
↓
国別Import Response
↓
国内手続
↓
実際の輸出条件
までつなげて確認することが重要です。
試験・分析も同じです。
分析は、物質を特定し、濃度や組成を確認するための重要な手段になり得ます。しかし、国際条約への対応は分析証明書だけでは完結しません。
Testingの結果を、規制情報、輸出入手続、サプライチェーン情報とどう結びつけるか。ここに、TICの観点から見たロッテルダム条約対応の重要な実務論点があります。
まとめ――ロッテルダム条約が守ろうとしているのは「選ぶための情報」
ロッテルダム条約は、有害化学物質を世界一律に禁止する条約ではありません。
条約の中心にあるのは、
事前に情報を共有し、輸入国自身が受入れの可否を判断できるようにすること
です。そのための仕組みがPICです。
2026年8月時点で附属書IIIには57の化学物質が掲載され、輸入国はそれぞれについてImport Responseを示します。さらに、附属書III未掲載の物質であっても、輸出国で禁止または厳しく制限されている場合にはExport Notificationが関係することがあります。
企業にとって重要なのは、「規制物質リストを見ること」だけではありません。
どこへ輸出するのか。
輸入国は何を決めているのか。
輸出国ではどのような手続が必要なのか。
その判断を裏付ける物質情報は十分か。
ここまでを一つの流れとして見る必要があります。
ロッテルダム条約が管理しているのは、化学物質だけではありません。化学物質を国境を越えて取引するときの「情報」と「意思決定」そのものなのです。
化学物質の輸出規制対応を、対象物質の整理から試験・分析まで
海外向け化学品・材料の輸出において、対象物質の特定、規制要求の整理、サプライヤー情報の確認、必要な試験・分析の切り分けなど、規制対応の初期整理を支援しています。
本記事は一般的な情報提供を目的としたものであり、法令、条約その他の公式文書を代替するものではありません。
実際の対象物質、輸出入条件、必要な手続その他の要求事項については、当局および条約事務局が公表する最新の公式情報をご確認ください。
情報基準日:2026年8月31日
Rotterdam Convention Secretariat, Convention Overview
Rotterdam Convention Secretariat, PIC Procedure
Rotterdam Convention Secretariat, Annex III Chemicals
Rotterdam Convention Secretariat, Import Responses
Rotterdam Convention Secretariat, Export Notifications
Rotterdam Convention Secretariat, PIC Circular 63
環境省 ロッテルダム条約関連資料
経済産業省 PIC条約関連情報
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