安衛法とは何か――なぜ職場の化学物質管理は「決められた物質を守る」から変わったのか【完全保存版】

2026年、日本の職場における化学物質管理は大きな転換点の中にあります。

労働安全衛生法、いわゆる「安衛法」に基づくラベル表示、SDS交付、リスクアセスメントなどの対象は段階的に拡大され、2026年4月には約2,900物質に達しました。

しかし、この改革の本質は「規制対象物質が増えた」ということだけではありません。

これまで日本では、特に危険性・有害性の高い化学物質について、国が物質ごとに具体的な管理方法を定める仕組みが中心でした。

現在はそこから、企業自身がSDSなどから危険有害性を把握し、実際の作業条件を調べ、リスクを評価し、その結果に応じてばく露を減らす「自律的な化学物質管理」へと大きく転換しています。

安衛法の化学物質管理を理解するには、「どの物質が規制されているか」だけでなく、Hazard(危険有害性)とRisk(リスク)を分けて考えることから始める必要があります。

BASIC CONCEPT

1.安衛法とは――「働く人」を守る法律

労働安全衛生法は、1972年に制定されました。

その目的は、職場における労働者の安全と健康を確保し、快適な職場環境の形成を促進することです。

その対象は化学物質だけではありません。

機械、設備、作業方法、墜落、爆発、騒音、健康管理など、職場の安全衛生全般を幅広く扱います。

その中で重要な分野の一つが、化学物質による労働災害や健康障害の防止です。

工場、研究所、建設現場、メンテナンス、印刷、塗装、洗浄など、さまざまな職場で化学物質が使用されています。

ラベル表示
SDSによる情報伝達
リスクアセスメント
ばく露低減措置

安衛法では、こうした仕組みを通じて、実際に化学物質を取り扱う人を守ります。

WHY THE SYSTEM CHANGED

2.なぜ日本の化学物質管理は変わったのか

日本では長年、特に危険性・有害性の高い化学物質について、個別の規則によって具体的な対策を定めてきました。

SPECIAL RULE

特化則

特定化学物質障害予防規則。特定の高リスク化学物質について、設備、換気、測定、健康診断など具体的な措置を定めます。

SPECIAL RULE

有機則

有機溶剤中毒予防規則。有機溶剤による中毒や健康障害を防ぐため、作業環境や設備などを具体的に管理します。

この方式には大きな意味があり、現在もこれらの規則は存在しています。

しかし、世の中で使用されている化学物質は非常に多く、すべての物質について国が一つずつ詳細な規則を作ることは現実的ではありません。

さらに、化学物質による労働災害は、必ずしも特化則や有機則などで個別規制されている物質だけで発生しているわけではありません。

厚生労働省は、新しい化学物質管理制度を導入した背景として、化学物質による休業4日以上の労働災害のうち、特別規則の対象外物質に起因するものが約8割を占めるとしています。

「国が個別に指定した物質だけを守っていれば安全」とは言えなくなったのです。

AUTONOMOUS MANAGEMENT

3.「個別規制」から「自律的管理」へ

そこで日本の化学物質管理は、大きく方向を変えました。

CONVENTIONAL APPROACH

国が物質を指定する

国が対策を決める

企業が決められた対策を実施する

NEW APPROACH

危険有害性情報を確認する

実際の作業条件を確認する

リスクアセスメントを行う

適切な低減措置を選ぶ

結果を確認・改善する

これが「自律的な化学物質管理」です。

もちろん、企業が自由に何をしてもよいという意味ではありません。国が定める基準や法令を守ったうえで、実際の物質、設備、作業方法、使用量、作業時間などに応じた管理を企業自身が行う仕組みです。

2026 UPDATE

4.2026年――対象は約2,900物質へ

この転換に伴い、ラベル表示、SDS交付、リスクアセスメントなどの対象となる化学物質も段階的に拡大されています。

AS OF APRIL 2026

約2,900物質

ラベル表示・SDS交付・リスクアセスメント等の対象

国によるGHS分類で危険性・有害性が確認された化学物質を中心として対象が追加され、2026年4月1日時点では約2,900物質が対象となりました。

ここで重要なのは、単純に「2,900物質を覚える」ことではありません。

対象物質は今後も更新されます。実際、2027年4月、2028年4月に施行される対象物質の追加もすでに決定されています。

昔のSDS、昔の対象物質リスト、以前の社内化学物質台帳だけを前提に管理しない。
「現在、その物質がどの制度の対象なのか」を継続して確認する必要があります。

GHS / LABEL / SDS

5.GHS・ラベル・SDS――まず危険有害性を知る

自律的管理の出発点になるのが、化学物質の危険有害性情報です。

ここでGHSが重要になります。

GHSは、化学品の危険有害性を分類し、ラベルやSDSを通じて情報を伝えるための国際的な仕組みです。

安衛法では、対象となる化学物質についてラベル表示やSDSによる情報伝達を求めています。

情報手段 主な役割
ラベル 危険有害性を現場で直感的に伝える
SDS 成分、危険有害性、取扱い、保護具などの詳細情報を伝える

SDSを受け取ること自体が目的ではありません。SDSは、安全に化学物質を取り扱うための「入口となる情報」です。

FROM SDS TO RISK ASSESSMENT

6.SDSを受け取ったら、次に何をするのか

例えば、新しい洗浄剤を工場へ導入するとします。

SDSを受け取り、「吸入すると有害」「皮膚刺激性がある」と書かれていたとします。

しかし、その情報だけでは実際の職場のリスクは決まりません。

CASE A

密閉設備の中で少量を短時間使用する

CASE B

開放容器から大量に長時間使用する

同じ化学物質でも、労働者がばく露する可能性は大きく異なります。

そこで必要になるのが、リスクアセスメントです。

HAZARD VS RISK

7.HazardとRiskは違う

化学物質管理を理解するうえで、非常に重要なのが、Hazard(危険有害性)Risk(リスク)の違いです。

意味
Hazard 物質そのものが持つ危険性・有害性 発がん性、皮膚腐食性、吸入有害性、引火性など
Risk 実際の作業で危害が起こる可能性と程度 使用量、時間、換気、密閉性、作業方法などによって変化

Hazard = その物質がどれだけ危険か

Risk = その危険に、実際の作業でどれだけさらされるか

危険有害性の高い物質でも、完全に密閉され、労働者がばく露しない工程であればリスクは低くできる可能性があります。

逆に、比較的有害性が低い物質でも、大量に飛散し、長時間ばく露する環境では無視できないリスクになることがあります。だからこそ、物質名だけではなく「どう使っているのか」を見る必要があります。

RISK ASSESSMENT

8.リスクアセスメントとは何をするのか

安衛法における化学物質のリスクアセスメントでは、対象となる物質を製造・取り扱う事業場において、危険性・有害性を特定し、実際の作業条件を踏まえてリスクを見積もり、必要な低減措置を検討します。

① 使用している化学物質を把握する

② 最新のSDSを確認する

③ 危険性・有害性を確認する

④ 使用量、作業時間、作業方法、換気などを確認する

⑤ 労働者のばく露の可能性を評価する

⑥ 必要なリスク低減措置を決める

⑦ 実施し、その結果を確認する

リスクアセスメントは、書類を一枚作って終わる制度ではありません。実際の作業を安全にするための判断プロセスです。

RISK REDUCTION

9.リスクを下げるには何をするのか

化学物質へのばく露を減らす方法は、保護具だけではありません。

一般的には、より根本的な対策から検討します。

1.危険性・有害性の低い物質への代替

2.工程・設備そのものの変更

3.密閉化

4.局所排気装置などの工学的対策

5.作業手順や作業時間の管理

6.保護具の使用

「危険だから、とりあえずマスクを着ける」ではなく、まず危険源そのものをなくせないか、次に設備でばく露を減らせないかを検討し、それでも残るリスクに対して管理方法や保護具を使うことが重要です。

EXPOSURE LIMITS

10.「濃度基準値」とは何か

新しい化学物質管理で重要性が増しているのが、濃度基準値です。

濃度基準値が設定されている対象物質を屋内作業場で製造・取り扱う場合、事業者は労働者がばく露する程度を、その基準以下にしなければなりません。

8-HOUR LIMIT

八時間濃度基準値

原則として、8時間の作業における時間加重平均濃度を評価します。

SHORT-TERM LIMIT

短時間濃度基準値

濃度が高くなると考えられる15分間のばく露を評価します。

「平均では低いから大丈夫」とは限りません。

一時的に非常に高い濃度へばく露する作業についても考える必要があります。

2026 UPDATE

11.2026年10月、濃度基準値はさらに拡大する

濃度基準値も固定された制度ではありません。

2024年4月から最初の67物質について適用が始まり、その後対象が追加されています。

OCTOBER 1, 2026

新たに78物質へ適用

あわせて既存1物質について基準値の変更が行われます。

厚生労働省は2026年8月31日、今後の対象拡大も踏まえた新しい「化学物質による健康障害防止のための濃度の基準の適用等に関する技術上の指針」を公示しました。

制度は今も拡大・更新されているのです。

MEASUREMENT & TESTING

12.測定はすべての化学物質で必要なのか

「濃度基準値があるなら、すべての職場で測定しなければならないのか」という疑問が生まれます。

必ずしもそうではありません。

まずリスクアセスメントによって、労働者がどの程度ばく露する可能性があるのかを把握します。

その結果、濃度基準値を超えるおそれがある屋内作業については、ばく露が基準値以下であることを確認するための測定が必要になります。

どの物質が

どの濃度で

どの程度ばく露しているのか

測定では、実際に労働者が吸入する空気を採取する個人ばく露測定などが重要になります。

分析・測定は単に「対象物質が存在することを証明する」ためだけではありません。実際の職場で、人がどれだけばく露しているのかを確認するためのTestingという役割を持ちます。

CHEMICAL MANAGER

13.化学物質管理者とは何をする人なのか

自律的管理では、企業の中で誰が化学物質管理を担うのかも重要になります。

リスクアセスメント対象物を製造し、または取り扱う事業場では、原則として化学物質管理者を選任し、化学物質管理に関する技術的事項を管理させる必要があります。

ラベル・SDSの確認

リスクアセスメント

リスク低減措置

記録

労働者への周知・教育

化学物質管理者は「SDSを保管する担当者」ではありません。SDSに書かれた情報を実際の作業管理へつなげる役割を担います。

PPE MANAGEMENT

14.保護具着用管理責任者とは

リスクアセスメントの結果などに基づいて労働者に保護具を使用させる場合には、一定の場合に保護具着用管理責任者を選任します。

その役割は、適切な保護具を選び、正しく使用されているかを確認し、保守・管理することです。

呼吸用保護具

対象物質、濃度、作業条件などに応じて、適切なマスクや吸収缶を選択する必要があります。

化学防護手袋

物質によって透過時間や適した材料が異なり、「手袋をしている」だけでは十分ではありません。

保護具は最後の防御線だからこそ、「着けているか」ではなく「適切なものを正しく使っているか」が重要になります。

DERMAL EXPOSURE

15.皮膚から入る化学物質にも注意する

化学物質へのばく露というと、吸入をイメージしがちです。

しかし、化学物質は皮膚や眼からも人体へ影響を及ぼします。

そこで新しい化学物質管理では、皮膚等障害化学物質への対策も重要になっています。

化学防護手袋

保護衣

保護眼鏡など

皮膚や眼への障害を起こす物質、皮膚から吸収され健康影響を生じる可能性がある物質については、直接接触を防ぐ必要があります。これは、「空気中濃度だけ測れば化学物質管理は終わる」わけではないことを示しています。

CARCINOGENS

16.発がん性物質はなぜ特別なのか

発がん性が明確な化学物質についても特別な注意が必要です。

一部の発がん性物質では、「この濃度以下なら長期間ばく露しても絶対に安全」という明確な閾値を設定することが難しい場合があります。

基準値だけを見るのではなく、ばく露を可能な限り低くするという考え方が重要です。

新しい制度が「基準値だけ守ればよい」という仕組みではない理由の一つです。

SPECIAL RULES

17.特化則・有機則はなくなったのか

自律的管理への転換を、「特化則や有機則がなくなった」と理解するのは誤りです。

特化則、有機則などによって個別に規制されている物質については、現在もそれぞれの規則が適用されます。

INDIVIDUAL REGULATION

特定の高リスク物質について、具体的な措置を求める個別規制

AUTONOMOUS MANAGEMENT

より広い危険有害性物質について、リスクアセスメントを基礎として管理する仕組み

古い制度から新しい制度へ完全に置き換わったのではなく、管理の範囲が大きく広がったと理解する方が正確です。

PRTR LAW VS OSH ACT

18.化管法と安衛法は何が違うのか

前の記事で扱った化管法でもSDSが登場しました。

では、化管法と安衛法は何が違うのでしょうか。

化管法 安衛法
主な視点 化学物質の排出・移動・情報伝達 職場で化学物質を扱う人の安全・健康
代表的な仕組み PRTR、SDS ラベル、SDS、リスクアセスメント、ばく露低減
簡単に言えば 化学物質がどこへ行くのか その化学物質を扱う人をどう守るのか

SDSは、その二つをつなぐ重要な情報基盤でもあります。

JAPAN CHEMICAL REGULATION

19.化審法・化管法・安衛法を並べると見えてくる

ここまで日本の代表的な化学物質制度を並べると、それぞれの役割が見えてきます。

制度 何を見るか 主な役割
化審法 化学物質そのもの 審査・評価・製造輸入等の管理
化管法 環境・サプライチェーン 排出・移動の把握、情報伝達
安衛法 職場・労働者 危険有害性の把握、リスク管理、ばく露低減

一つの化学物質が複数の法律の対象になるのは、「同じ規制が重複している」からではありません。物質、環境、サプライチェーン、職場、人という異なる視点から管理しているからです。

PRACTICAL CHECK

20.企業は何を確認すればよいのか

安衛法の化学物質管理で最初に行うべきことは、いきなり測定することではありません。

① 事業場で使用している化学物質を把握する

② 最新のSDSを収集する

③ 現在のリスクアセスメント対象物に該当するか確認する

④ 使用量、作業時間、換気、ばく露経路など実際の作業条件を確認する

⑤ リスクアセスメントを行う

⑥ 代替、密閉化、局所排気、作業管理、保護具などの対策を実施する

⑦ 必要に応じて、ばく露測定・分析により対策の妥当性を確認する

⑧ 結果を記録し、作業変更や新しい情報に応じて見直す

「SDSを持っている」ことと「安全に管理できている」ことは同じではありません。

TICNOLOGY JAPAN VIEW

安衛法が変えようとしているのは、「法令対応」ではなく現場の判断である

日本の化学物質管理は長い間、「この物質にはこの設備」「この作業ではこの測定」という、具体的な規制を守ることによって職場の安全を確保してきました。

この仕組みは現在も重要です。

しかし、使用される化学物質が増え続ける中で、国がすべての物質、すべての作業について最適な管理方法を事前に決めることには限界があります。

Hazardを知り、Riskを考え、実際のばく露を管理する。

SDSはそのための入口です。

リスクアセスメントは、SDSに書かれた危険有害性を実際の作業へ置き換えるプロセスです。

測定・分析は、想定したばく露が本当に管理できているのかを確認する手段です。

そして化学物質管理者は、それらを一つの管理体系としてつなぐ役割を担います。

つまり、新しい安衛法の化学物質管理で企業に求められているのは、「法律に書かれた対策を実施したか」だけではありません。

自社の職場で、誰が、何を、どれだけ、どのように扱い、どこからばく露する可能性があり、どうすればそのリスクを下げられるのか。

そこまで考えることです。

化審法が「化学物質そのもの」を管理し、化管法が「化学物質の行き先」を見える化する制度だとすれば、安衛法が最後に見ているのは、その化学物質のすぐそばで働いている「人」です。

自律的な化学物質管理とは、企業に規制を任せるということではありません。
化学物質の安全を、法令の物質リストだけではなく、実際の現場から考える仕組みへ変えること。
それが、現在進んでいる日本の化学物質管理改革の本質なのです。

本記事について

本記事は、労働安全衛生法に基づく化学物質管理について、2026年9月時点で公表されている厚生労働省等の情報をもとに、一般的な制度概要と企業実務上の考え方を整理したものです。

参考資料

・厚生労働省「職場における化学物質対策について」

・厚生労働省「労働安全衛生法の新たな化学物質規制」

・厚生労働省「化学物質による健康障害防止のための濃度の基準の適用等に関する技術上の指針」

・厚生労働省「リスクアセスメント対象物健康診断に関するガイドライン等」

・独立行政法人労働者健康安全機構 労働安全衛生総合研究所 化学物質情報関連資料

※本記事は一般的な情報提供を目的としたものであり、個別の事業場、作業、製品または化学物質について法的判断を示すものではありません。実際の対応にあたっては、最新の法令、政省令、告示、指針および所管官庁の公表情報をご確認ください。

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