水銀は、かつて電池、蛍光ランプ、計測機器、製造工程、歯科治療など、さまざまな用途で利用されてきました。一方、水銀による汚染は一つの工場や地域だけにとどまらず、大気や水などを通じて環境中を移動し、人の健康や生態系に長期的な影響を及ぼす可能性があります。
この問題に国際社会が対応するためにつくられたのが、「水銀に関する水俣条約(Minamata Convention on Mercury)」です。
条約が特徴的なのは、特定の製品だけを禁止する制度ではないことです。
水銀の採掘から供給・貿易、水銀添加製品、製造工程、大気への排出、水・土壌への放出、保管、廃棄物、汚染サイトまで、水銀のライフサイクル全体を管理するという考え方が根底にあります。
なぜ、一つの金属についてここまで広い国際的な管理が必要なのでしょうか。そして、製造業や品質・環境部門は、水俣条約をどのように理解すればよいのでしょうか。
「水俣」の名を持つ国際条約
水俣条約を理解するには、まずその名称から始める必要があります。
水俣病は、日本の高度経済成長期に発生した深刻な公害問題です。工場排水に含まれたメチル水銀が環境中に排出され、魚介類を介して人の体内に取り込まれたことで、深刻な健康被害を引き起こしました。
その経験は、日本国内だけの公害史にとどまりませんでした。
2001年、国連環境計画(UNEP)は地球規模の水銀汚染に関する活動を開始しました。2009年には、水銀に関する法的拘束力のある国際文書をつくるための政府間交渉を開始することが合意されます。
2013年1月、ジュネーブで開催された政府間交渉委員会第5回会合で条文案が合意され、日本からの提案を踏まえて「水銀に関する水俣条約」という名称が全会一致で決定されました。
同年10月10日、熊本で開催された外交会議で条約が正式に採択されます。
日本は2016年2月2日に条約を締結し、条約そのものは2017年8月16日に発効しました。現在、条約事務局によれば154の締約国があります。
「Minamata」という名称には、水俣病と同じような被害を世界のどこでも繰り返さないという国際社会の意思が込められています。
水俣条約の核心は「水銀を使った製品の禁止」だけではない
水俣条約というと、「水銀を含む製品を禁止する条約」というイメージを持つかもしれません。
確かに、水銀添加製品の製造や輸出入に関する規制は重要な柱です。
しかし、それだけでは条約全体を理解したことにはなりません。
環境省は、水俣条約について、採掘から流通、使用、廃棄に至る水銀のライフサイクル全体にわたる適正な管理と排出削減を定める条約と説明しています。
大きく整理すると、対象となるのは次のような段階です。
水銀の採掘
↓
水銀の供給・国際貿易
↓
水銀添加製品
↓
水銀を使用する製造工程
↓
大気への排出
↓
水・土壌への放出
↓
水銀の保管
↓
水銀廃棄物
↓
水銀によって汚染された場所
水俣条約の特徴は、「製品規制」ではなく「ライフサイクル管理」にあります。
ある用途だけを禁止しても、別の用途へ水銀が流れれば問題は解決しません。
製品への使用を止めても、大気排出や廃棄物管理が不十分であれば、水銀は環境中へ移動します。
水銀を「どの製品に入っているか」だけでなく、「どこから来て、どこで使われ、最後にどこへ行くのか」まで追う。これが水俣条約を理解するうえで最も重要な視点です。
まず入口を絞る――水銀の採掘と供給
ライフサイクル管理の最初にあるのが、水銀そのものの供給です。
水俣条約では、新たな水銀の一次採掘を認めず、条約発効時に存在していた一次水銀鉱山についても段階的な廃止を求めています。さらに、水銀の供給源の特定や輸出入についても管理します。
ここには明確な考え方があります。
水銀が大量に市場へ供給され続ければ、製品や工程での使用だけを規制しても、別の用途や地域へ流れていく可能性があります。
使用段階だけではなく、供給源そのものから管理する。
この考え方が、その後の製品、製造工程、排出、廃棄物まで一貫しています。
水銀添加製品――企業に最も身近な規制の一つ
製造業にとって比較的分かりやすいのが、水銀添加製品です。
Mercury-added products
意図的に水銀または水銀化合物が添加された製品・製品部品
条約の附属書Aでは、対象となる水銀添加製品について、一定の期日以降の製造、輸入または輸出を禁止する仕組みが設けられています。
対象には、条件に応じて、電池、スイッチ・リレー、ランプ、化粧品、計測機器など、さまざまな製品があります。
ただし、ここで注意が必要です。
「電池ならすべて同じ」「ランプならすべて禁止」と単純化することはできません。
製品の種類、用途、水銀含有量、適用除外、規制開始時期などによって扱いが異なる場合があります。
✓ 何の製品なのか
✓ どの用途なのか
✓ 水銀含有量はいくらか
✓ いつから規制されるのか
✓ 適用除外に該当するか
規制は現在も動いている――蛍光ランプも段階的に廃止へ
水俣条約は2017年に発効した条約ですが、規制内容がそこで固定されたわけではありません。
締約国会議(COP)では、科学的知見、代替技術の普及、市場状況などを踏まえて、対象製品や要求事項の見直しが続けられています。
例えばCOP4とCOP5では、水銀添加製品に関する附属書Aが改正され、一般照明用蛍光ランプなどについて新たな廃止時期が設定されました。
日本でもこれを受けて水銀汚染防止法施行令が改正されています。
規制開始日は製品によって異なり、2026年1月1日、2027年1月1日、2028年1月1日など段階的に設定されています。
「水俣条約は2017年に発効したから、対応はすでに終わった」という理解は適切ではありません。
国際条約の附属書が改正されれば、それを受けて国内制度も変わります。
規制対応は一度の確認ではなく、継続的な更新管理が必要です。
2025年COP6――歯科用アマルガムは2034年までに廃止へ
さらに大きな動きがあったのが、2025年11月にジュネーブで開催された第6回締約国会議(COP6)です。
COP6では22件の決定が採択され、その中でも注目されたのが歯科用アマルガムです。
歯科用アマルガムは、水銀を含む歯科修復材料です。
これまで条約では、その使用を段階的に削減する「phase down」の対象として扱われてきました。
COP6では附属書Aを改正し、2034年を期限として歯科用アマルガムの製造・輸入・輸出を世界的に廃止することが決定されました。
ただし、患者の必要性に基づき歯科医師が必要と判断する場合については例外が設けられています。
これは水俣条約の規制が、削減する段階から、代替技術の状況を見ながら廃止へ進む場合があることを示す分かりやすい例です。
製品だけではない――製造工程でも水銀を管理する
水俣条約は完成品だけを対象としているわけではありません。
附属書Bでは、水銀または水銀化合物を使用する特定の製造工程についても規定しています。
ここが製造業にとって重要です。
完成した製品に水銀が含まれていなくても、製造工程で水銀が使用される場合があります。
したがって、「最終製品に水銀が入っていないから関係ない」とは限りません。
製品の含有物質管理と、製造工程における化学物質管理は別の問題です。水俣条約はその両方を見る制度になっています。
大気への排出も対象になる
水銀は製品や原材料として移動するだけではありません。
燃焼や工業プロセスなどによって、大気へ排出されることがあります。
そのため水俣条約では、大気への水銀排出についても管理措置を定めています。
対象となる発生源には、石炭火力発電所、石炭焚き産業用ボイラー、非鉄金属製造施設、廃棄物焼却施設、セメントクリンカー製造施設などがあります。
ここでは「製品中の水銀含有量を測る」という考え方だけでは対応できません。
水銀規制は、製品コンプライアンスだけではなく、環境管理・設備管理の問題でもあります。
設備、工程、排ガス、排出管理技術などを見る必要があります。
水・土壌への放出、保管、廃棄物まで続く
ライフサイクルの後半では、水・土壌への放出、水銀の暫定的保管、水銀廃棄物の管理、汚染サイトなどが対象になります。
つまり、水銀を「使わなくなった」からといって問題が終わるわけではありません。
使用済み製品、廃棄設備、回収された水銀、水銀を含む廃棄物などをどう管理するかという次の問題が生まれます。
この点は循環経済や資源循環を考える際にも重要です。
資源循環と有害物質管理は、同時に設計する必要があります。
リサイクルによって資源を循環させること自体は重要ですが、有害物質まで無制限に循環させてよいわけではありません。水俣条約はそのことを非常に分かりやすく示しています。
小規模金採掘というもう一つの大きな問題
水俣条約には、日本の製造業から見ると少し遠く感じられるものの、世界的には極めて重要なテーマがあります。
ASGM
Artisanal and Small-scale Gold Mining = 零細・小規模金採掘
金鉱石から金を取り出す際、水銀と金が結びつく性質を利用した方法が使われることがあります。
この方法は比較的簡単で低コストですが、水銀への曝露や環境への排出につながります。
そのため水俣条約では、一定規模以上のASGMが存在する締約国に対して、国家行動計画の策定などを求めています。
2025年のCOP6でもこの問題は議論され、金のサプライチェーンにおけるトレーサビリティや透明性を改善するため、国際的に協力していくことが決定されました。
ここから見えてくるのは、水俣条約が単なる「化学物質規制」ではないということです。原材料の採取方法、労働環境、環境汚染、サプライチェーンの透明性まで関係する問題になっています。
日本では水俣条約をどう実施しているのか
国際条約が存在するからといって、企業が条約本文だけを読んで実務対応するわけではありません。
各国は条約上の義務を国内制度へ落とし込みます。
日本では、水俣条約の実施を確保するため、
水銀による環境の汚染の防止に関する法律(水銀汚染防止法)
が整備されています。
同法では、水銀の掘採、特定水銀使用製品の製造、特定製造工程における水銀等の使用、水銀等を使用する方法による金の採取を禁止するとともに、水銀等の貯蔵や水銀含有再生資源の管理などについて定めています。
また、輸出入については外為法に基づく管理があります。
対象となる特定水銀、特定水銀化合物、特定水銀使用製品等を輸出または輸入する場合、経済産業大臣の承認が必要となる場合があります。
国際条約
↓
国内法令
↓
対象製品・工程
↓
企業の具体的な義務
この順番で確認することが重要です。
企業は何を確認すればよいのか
水俣条約への対応を考える際、すべての企業が条約全体を同じ深さで調べる必要はありません。
まず、自社が水銀のライフサイクルのどこに関係しているのかを確認することが重要です。
STEP 1 水銀との接点を確認する
最初に確認するのは、次のような点です。
✓ 原材料として水銀・水銀化合物を扱っているか
✓ 製品・部品に水銀が含まれているか
✓ 製造工程で水銀を使用しているか
✓ 水銀を含む設備や計測器を使用しているか
✓ 水銀を含む廃棄物・再生資源を扱っているか
✓ 対象製品を輸出入しているか
STEP 2 製品の種類と規制開始時期を確認する
水銀を含むからといって、すべての製品が同じ日に同じ規制を受けるわけではありません。
対象製品、用途、含有量、適用除外、規制開始日を確認します。
とくに蛍光ランプなどは規制開始時期が段階的に設定されているため注意が必要です。
STEP 3 サプライヤー情報を確認する
自社で水銀を意図的に使用していなくても、購入部品、ランプ、スイッチ、計測機器などに含まれている可能性があります。
SDSだけでは製品中のすべての含有物質を確認できない場合もあるため、必要に応じて部品表、材料情報、含有化学物質情報、サプライヤー宣言などを組み合わせて確認します。
STEP 4 輸出入がある場合は国内手続まで確認する
製品が条約対象かどうかだけでなく、実際に日本から輸出する、日本へ輸入するといった場合には、外為法等に基づく具体的な手続まで確認する必要があります。
水俣条約と試験・分析はどう関係するのか
ここはTICの観点から重要なポイントです。
水俣条約は、特定の「水俣条約試験」を実施すれば適合できる制度ではありません。
まず確認すべきなのは、その製品や材料が、どの規制区分に該当するのかです。
そのうえで、製品中に水銀が含まれているか、どの程度含まれているかを確認する必要がある場合に、試験・分析が一つの手段になります。
例えば、
「サプライヤーから十分な含有情報が得られない」
「古い部品に水銀が使用されている可能性がある」
「規制対象となる製品区分か判断するために水銀含有量を確認したい」
といった場合です。
一方で、分析結果だけでは、用途、製品区分、適用除外、規制開始日、輸出入手続などは判断できません。
規制要求の確認 + 製品・工程情報 + サプライヤー情報 + 必要に応じた試験・分析
という組み合わせで考える必要があります。
ストックホルム条約、ロッテルダム条約とは何が違うのか
ここまで世界の化学物質規制を見てくると、国際条約がそれぞれ異なる役割を持っていることが分かります。
ストックホルム条約
POPsを対象に、製造・使用等の廃絶・制限を進める
ロッテルダム条約
特定の有害化学物質・農薬の国際貿易について、情報共有と輸入国の意思決定を支える
水俣条約
水銀について、採掘から貿易、製品、工程、排出、保管、廃棄までライフサイクル全体を管理する
同じ環境・化学物質分野の国際条約でも、対象とする問題と管理方法は異なります。
水俣条約が特徴的なのは、一つの物質群を対象に、その入口から出口までを見る点です。
「含有しているか」だけでは水銀管理は見えない
製造業の化学物質管理では、「製品に規制物質が含まれているか」という問いから始めることが少なくありません。
もちろん、それは重要です。
しかし、水俣条約を見ると、それだけでは化学物質管理の一部分しか見ていないことが分かります。
どこから調達したのか
どの製品に使用したのか
製造工程で使用していないか
工程から環境へ排出されないか
使用後にどのように回収するのか
廃棄物をどう管理するのか
まで問題が連続しています。
つまり、水銀管理は、
調達 → 製造 → 品質保証 → 環境管理 → 輸出入 → 廃棄物管理
を横断するテーマです。
TICnology Japanでは、ここに水俣条約から学べる重要な示唆があると考えます。
規制対応を「試験をするか、しないか」だけで考えるのではなく、まず規制の構造と自社の接点を整理し、そのうえでどこに情報収集、サプライヤー調査、試験・分析、工程管理が必要なのかを決める。
RegulationとTestingをつなぐ前に、まず自社のサプライチェーンとライフサイクルを理解する。それが効率的な化学物質管理につながります。
まとめ――水俣条約が管理しているのは、水銀の「一生」
水俣条約は、水銀を含む製品だけを禁止する条約ではありません。
水銀が、
どこへ運ばれ、
何に使われ、
どこへ排出され、
最後にどう処理されるのか。
その一連の流れを管理する国際的な仕組みです。
2013年に熊本で採択され、2017年に発効した後も制度は更新され続けています。2025年のCOP6では、歯科用アマルガムの製造・輸出入を2034年までに廃止することが決定されました。
日本でも2026年以降、電池や一般照明用蛍光ランプなどについて新たな規制開始時期を迎えています。
企業にとって重要なのは、水銀を「規制物質リストの一項目」として見ることではありません。
原材料、製品、製造工程、排出、輸出入、廃棄まで、自社が水銀のライフサイクルのどこに関係しているのかを把握する。
水俣条約は、化学物質管理をライフサイクルで考えることの重要性を、最も分かりやすく示す国際条約の一つです。
製品含有化学物質の規制対応を、要求事項の整理から試験・分析まで
水銀をはじめとする規制物質について、対象製品・材料の整理、サプライヤー情報の確認、必要な試験・分析の切り分け、国内外の分析リソースの選定などを支援しています。
本記事は、2026年9月1日時点で確認できる水銀に関する水俣条約事務局、環境省、経済産業省等の公式公開資料をもとに整理・分析しています。
水俣条約の附属書改正と、日本を含む各締約国における具体的な規制開始時期は必ずしも同一ではありません。対象製品、用途、含有量、適用除外、規制開始日、輸出入手続等については、実際に事業を行う国・地域の最新の法令・公式情報を確認する必要があります。
本記事にはTICnology Japanによる分析・考察が含まれており、特定の企業、製品、サービスを推奨するものではありません。
情報基準日:2026年9月1日
Minamata Convention on Mercury Secretariat, Minamata Convention on Mercury – Text and Annexes
Minamata Convention on Mercury Secretariat, About the Minamata Convention
Minamata Convention on Mercury Secretariat, Mercury-added products
Minamata Convention on Mercury Secretariat, MC-6/3 – Amendments to Annex A
環境省「水俣条約について」
環境省「水銀に関する水俣条約第6回締約国会議の結果について」
環境省「水銀による環境の汚染の防止に関する法律について」
経済産業省「規制の対象となる製品・製造工程について」
経済産業省「特定の水銀、水銀化合物及び水銀使用製品の輸出入管理」
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